十年分の「空」に込められた、祖母の祈り
祖母が亡くなってから一週間。実家の片付けは、思い出の整理というよりも、心の傷をゆっくりと撫でるような時間だった。
押し入れの奥から、使い古されたフィーチャーフォンが出てきたのは、最後の日だった。角の塗料が剥げ、ボタンの印字が擦り切れたそれは、祖母が孫である私との唯一の連絡手段として、頑なに使い続けていたものだ。
「もう役目はないんだな」
そう呟いて、私は解約の手続きをしようと電源を入れた。画面が弱々しく光り、受信トレイを開こうとした指先が、ふと送信履歴のボタンに触れた。
そこに、私の電話番号が並んでいた。
1件、2件ではない。10年前の日付から今日に至るまで、信じられないほどの数が連なっている。私は震える手で、一番古い履歴を開いた。
件名なし。本文なし。 続く2件目も、3件目も、すべてが同じだった。
「空のメール」だった。
最初は、操作ミスかと思った。でも、スクロールしてもスクロールしても、同じ空のメールが毎日、決まった時間に送られていた。仕事で忙殺されていた時期、喧嘩をして疎遠になっていた時期、海外留学で音信不通だったあの時期も。
祖母はこの小さな端末を手に取り、ゆっくりと、震える指で私の番号を入力していたのだろう。送信ボタンを押すとき、祖母はどんな表情をしていたのか。
「元気でいるか?」 「今日は寒いから、風邪をひいていないか?」
言葉にすれば照れくさいから、あるいは上手く打てないから。祖母は文字を打つ代わりに、ただ「元気でいてほしい」という祈りを、電波に乗せて送り続けていたのだ。
10年間、3,650通の空っぽのメール。
私は携帯電話を握りしめたまま、その場で泣き崩れた。そこには文字なんて必要なかった。私がどれほど忙しくても、どれほど祖母を放っておいても、祖母の世界では毎日必ず、私を想う時間が流れていたのだ。
今、私の手元にあるのは、文字のないただのデータだ。けれど、そこにはどんな手紙よりも重い、祖母の無償の愛が確かに刻まれていた。
私は端末を解約することをやめた。このメールは、祖母が私に遺してくれた、一生消えることのない「愛の通信」だから。
画面の中の「送信済み」という文字が、今は何よりも温かいメッセージとして、私の胸に響いている。