雨夜の拾い物、縫い目から零れた「母の願い」
傘を差す気力さえ失い、濡れたアスファルトの匂いだけが鼻を突く。人生のどん詰まりにいる自分を、街灯の鈍い光が冷たく照らしていた。
ゴミ捨て場の片隅、ずぶ濡れの段ボールの中に、そいつはいた。片目が取れかけ、毛並みは泥で固まった、古ぼけたクマのぬいぐるみだ。何の因果か、私はそれを拾い上げてしまった。自分と同じように、誰かに「もういらない」と捨てられたものに、妙な親近感を覚えたからかもしれない。
アパートへ持ち帰り、タオルで適当に拭いてやる。薄暗い部屋で、私はいつものように独り言をこぼした。「お前も、一人か」。返事なんて期待していない。それが当然の日常だった。
異変は三日後の夜に起きた。ぬいぐるみを乾かそうとドライヤーを当てたとき、背中の縫い目が少し解けているのに気づいたのだ。中から覗いたのは、綿ではなく、小さく折りたたまれた黄色いメモ用紙だった。
震える指でそれを取り出し、広げる。そこには、二十年前に亡くなった母の筆跡で、こう書かれていた。
『あなたが何歳になっても、私はあなたの味方だよ。どんなに辛い夜も、このクマを抱いて、あなたの好きな歌を歌ってあげて。それだけで、明日は必ずやってくるから』
胸の奥が、熱い何かで締め付けられた。
このぬいぐるみは、母が幼い頃の私にくれたものだった。いつの間にか捨てられたと思っていたそれは、巡り巡って、人生に絶望した私の元へ戻ってきたのだ。亡き母は、未来の私が孤独の淵に立つことを見越していたのだろうか。
「……バカだな、母さんは」
喉の奥から、乾いた笑いが漏れた。しかし、次の瞬間、込み上げてきたのは抑えきれない嗚咽だった。
今まで私は、「独りぼっちだ」と世界を呪い、過去の自分を「情けない弱者」として切り捨ててきた。だが、違った。私は誰からも見捨てられてなどいなかった。母の愛は、形を変えて、今もこうして私の手の中にある。
私はその夜、初めてぬいぐるみを強く抱きしめた。そして、母とよく歌った古い童謡を、掠れた声で口ずさんだ。
ぬいぐるみは何も喋らない。けれど、縫い目に隠された母の言葉が、私の凍りついた心を確実に溶かしていった。
雨はやんでいた。窓の外には、雲の切れ間からわずかな月明かりが覗いている。
「明日も、生きてみるか」
独り言は、もう孤独の嘆きではなかった。それは、明日へと続く、自分自身への小さな約束だった。捨てられたはずの私とクマは、こうして静かに、新しい朝を迎えようとしている。