深夜のタクシー、行き先は「天国に近い丘」
午前二時。街の喧騒が遠ざかり、重たい静寂がアスファルトを包む時間。 タクシーの運転手である私は、流しの営業中に、街外れのバス停で佇む一人の老婦人を見つけた。
銀色の髪を丁寧にまとめ、背筋をすっと伸ばしたその人は、私が車を寄せると、まるで最初からそこにいることが決まっていたかのように、迷いなく後部座席に乗り込んだ。
「どちらまでお送りしましょうか?」
私の問いかけに、彼女は少しだけ懐かしそうに目を細め、静かな声でこう言った。
「『天国に近い丘』までお願いできるかしら」
一瞬、耳を疑った。そこはかつて星を観測する場所として有名だったが、道路が崩落してもう十年以上も前に封鎖された、いわゆる廃道だ。しかし、彼女の瞳には迷いがなかった。私は何かを察し、メーターを入れずにアクセルを踏んだ。
車は街の光を抜け、街灯の絶えた暗闇の山道へと入っていく。崩れかけた舗装、伸び放題の雑草。車体が激しく揺れるたび、彼女はまるで大切な宝物を守るように、膝の上で握りしめた小さな木の箱を抱きしめた。
「若い頃、夫とここへ来たの」
途切れ途切れに、彼女は語り始めた。 戦後の貧しい時代、二人は何もない空を眺めながら、「いつか世界中を旅しよう」と笑いあったこと。子供を育て上げ、ようやく余裕ができた頃、夫が病に倒れたこと。そして、死の淵にいた夫が、最期の力でこう言ったという。
『もし先に行ったら、あの丘で待っているよ。一番星が見える場所で、君が来るのをずっと待っている』
彼女は笑った。その笑顔には、深い哀しみと、それを上回るほどの確かな誇りが混じっていた。 「ずっと約束を忘れないように生きてきたの。今日は、その約束を果たす日なのよ」
やがて車は、崩落地点の手前で動けなくなった。前方には、ガードレールが錆びつき、荒野へと続く獣道があるだけだ。 私は慌てて車を降り、彼女を抱えるようにして廃道を進んだ。冷たい夜風が吹き抜ける中、私たちは「天国に近い丘」と呼ばれる、かつての観測地点にたどり着いた。
雲が切れ、満天の星空が広がった。 彼女は木の箱を開けた。中には、真っ白な粉――夫の遺骨の一部が入っていた。
「あなた、来たわよ」
彼女が空に向かって呟いたその瞬間、星がひとつ、ひときわ大きく瞬いた。まるで、永い時を超えてようやく再会を果たした二人が、言葉にならない返事をしているかのように。
彼女は震える手で粉を丘の風に乗せた。 「……やっと、約束を守れたわ」
張り詰めていた糸が切れたように、彼女はその場にへたり込んだ。私は慌てて駆け寄ったが、彼女は穏やかな表情で、本当に静かに、眠るように目を閉じていた。
彼女の顔は、若き日の恋人と再会したばかりの乙女のように、驚くほど晴れやかだった。
その夜、タクシーの運転席に戻った私は、誰一人いない後部座席に向かって深く一礼をした。 窓の外には、二人の旅立ちを祝福するように、夜空で一番輝く星が、静かに光り続けていた。