針の音が繋いだ一時間——母が私を呼んだ、あの日曜日の午後
施設の重い自動ドアを抜けると、消毒液と微かな加齢の匂いが混ざり合った独特の空気が鼻を突く。窓際のベッドに座り、窓の外を虚ろに見つめる女性。それが、私の母だ。
「お母さん、来たよ」
声をかけても、母は私を見ようとしない。認知症が進み、私の名前はおろか、私が誰であるかという認識さえ、彼女の脳からは消えて久しい。私はただ、今日もそこに座り、見知らぬ誰かと向き合うような気持ちで、持参した小さなポータブルプレイヤーを取り出した。
母が若い頃、何よりも大切にしていたレコードがある。父と出会った日に聴いたという、古ぼけたジャズのレコードだ。
「……これ、覚えてる?」
針を落とす。パチパチというノイズの後、軽快なピアノのメロディが小さな部屋に広がった。
その瞬間だった。母の背筋が、ピンと伸びた。
まるで眠りから覚めるように、母がゆっくりと私の方を向く。その瞳からは、さっきまでの濁りが嘘のように消えていた。焦点が合い、彼女の薄い唇が小さく震える。
「……あなた、随分と大きくなったわね」
胸が詰まった。涙が溢れるのを必死に堪え、「うん、大きくなったよ」とだけ答えた。母は懐かしそうに目を細め、部屋の隅にある小さなテーブルを指差した。
「紅茶でも淹れましょうか。今日は、あなたの大好きなクッキーがあるのよ」
彼女の記憶の中では、ここは施設ではない。私たちにとって一番幸せだった、かつての我が家のリビングだ。私は夢中で湯を沸かし、お気に入りのティーカップを並べた。たった一時間の、夢のようなティータイムが始まった。
母は、私の仕事のこと、近所の友達のこと、そして亡き父の昔話を楽しそうに語った。一つひとつの言葉が鮮明で、まるで時間が巻き戻ったかのような錯覚に陥る。私たちは笑い、肩を並べ、かつてと同じ「母と娘」に戻っていた。
しかし、レコードのB面が終わり、最後の音が消えたとき、母はふと黙り込んだ。
「……あら、私、何をしていたのかしら」
視線が再び、窓の外の虚空へと彷徨い出す。一瞬だけ灯った情熱の光が、砂時計の砂が落ちるように静かに消えていく。私はもう一度名前を呼んだが、母はもう、私を知らない人の顔で見つめていた。
施設を出る帰り道。空は不思議なほど澄み渡っていた。
母は私の名前を忘れ、また元の迷宮へと戻っていった。でも、あのティーカップに残った紅茶の温かさと、母が私に向けてくれたあの優しい微笑みは、私の心の中に永遠に刻まれている。
神様がくれた、ほんの束の間の贈り物。 もし明日、母が私を忘れてしまっていても、私は何度でもここに来るだろう。
思い出が消えてしまうその日まで、あのレコードをかけて、一緒に紅茶を飲むために。