始発列車が運んできた、明日への切符
午前1時を回った無人駅のホームは、冬の冷気に支配されていた。
街の明かりから切り離されたそこには、僕と、ベンチの端に座る一人の老人しかいなかった。その日の僕は、これ以上ないほど打ちのめされていた。渾身の企画は会議で木端微塵に砕け、責任を押し付けられた上司からの冷たい視線が、今も脳裏に焼き付いている。
帰る場所も、帰る気力も失った僕は、終電を逃したまま、凍える指先をポケットに突っ込んでいた。
「冷えるねぇ」
不意に老人が声をかけてきた。白髪を整え、使い込まれたコートを着たその人は、まるで最初からそこに風景の一部として存在していたかのように穏やかだった。
「……ええ、まあ」
僕は素っ気なく答えた。慰めなんて、今の僕には毒にしかならないと思っていたからだ。しかし、老人は気に留める様子もなく、足元に置いた自動販売機から買いたての缶コーヒーを二つ取り出し、一つを僕に差し出した。
「温めると、少しだけ心まで解けるらしいよ。飲んでおきなさい」
断る理由も見つからず、受け取った缶の温もりが手のひらに伝わる。人肌よりも熱いその感触だけで、張り詰めていた糸がふわりと緩んだ気がした。
僕たちは、夜が明けるまで語り合った。僕が抱える情けない挫折の話、将来への漠然とした不安、そして誰にも言えなかった悔しさ。老人はただ静かに聞き、時折、遠い目をして相槌を打つだけだった。名も聞かず、素性も明かさない。ただ、同じ夜を共有するだけの関係。
老人は若い頃、遠くの街で大きな決断を間違えた話を教えてくれた。
「あの時、死んでしまいたいと思った。でも、明日の朝になれば太陽はまた昇る。その当たり前の事実が、時には一番の救いになることもあるんだよ」
その言葉は、説教臭さとは無縁だった。ただ、長く生きてきた人間の重みだけがあった。
夜の底が少しずつ白み始め、遠くから始発の列車の音が響いてきた。凍てつく空気の中に、エンジンの振動が微かな希望のように混じり始める。
「さて」
老人が立ち上がり、空になったコーヒーの缶をゴミ箱へ丁寧に捨てた。僕は立ち上がり、背筋を伸ばす。
「明日、生きてみます」
自分でも驚くほど、素直な言葉が口をついて出た。老人は何も答えず、ただ目尻に皺を寄せて微笑んだだけだった。
始発列車がホームに滑り込む。ドアが開くまでの短い間、僕たちは深く会釈をして別れた。
走り出した電車の窓から駅を見ると、老人の姿はもうどこにもなかった。まるで、最初から僕を励ますためだけに現れた精霊だったのではないかと思うほどに。
手元には、飲み干した缶コーヒーの空き缶が一つ。 僕はそれを鞄の中にそっとしまった。それは、僕が人生を投げ出さなかったという、唯一の証明書になった。
また、明日が来る。 その事実に、僕は今、少しだけ感謝している。